【思い出小説】島根を走るJR三江線が廃線になっても。
そこには人口が600人ほどの集落がある。
そして、この集落を通る唯一の鉄道「三江線」が、廃線になるらしい。
一両編成の列車に5人ほどのお客さんしか乗っていなかった三江線も、「廃線のお知らせ」をした途端に沢山の人が利用するようになったという。
「きっとみんな、何十年分の思い出を乗せて走る三江線が恋しくなったに違いない」
走り去っていく列車を見てそう思った。
1日に5回しか鳴ることのない踏切の音を、たまたま聞くことが出来た私はきっと運がいい。
この日は遊びに来たわけではなかった。
三江線も廃線になり、地域にある美術館「水の国」も廃館になってしまうというこの集落で、楽しいことをするために打ち合わせに来ていた。
人は楽しみがないと生きてはいけない。そう、楽しいことは自分で作るのだ。
私達は集落を歩いた。
「こんにちは、山です」とでも言わんばかりに、自己主張の激しい美しい山々に囲まれた静かな集落だった。
この集落のすぐ側には「江の川」という大きな川が走っている。とても穏やかだ。
しかし江の川は大氾濫を何度も起こしており、私が訪れた集落も大きな被害にあってきたという。
その災害が集落に多大なる影響を与えてきたことは、洪水の水位記録がそこらじゅうの建物に記されていることからも容易に推測できる。
悲しい記憶。
でもおじいちゃんとおばあちゃんは笑いながら当時のことを教えてくれた。
歳を取るってそういうことだ。きっと。
そして、おばあちゃんと腕を組んで歩いたり、スタンドバイミーもどきごっこをしているうちに「鹿賀駅」に到着した。
もちろん三江線の停車駅である。
この駅は、三江線が開通されたときに集落の人達がみんなで作った駅らしい。ただの忙しく人が行きかい、ぶつかっても見向きもしないような駅とは一味も二味も違う。
まず、人が行き交うスペースはそこには存在しない。
私はおばあちゃんに聞いた。
「昔からある駅だったら、思い出もいっぱいあるんじゃないですか?」
おばあちゃんは教えてくれた。
「ありますよ。この駅は私がちょうど中学1年生の頃にできてね。当時の私は通学に利用していたのよ。
通学時間と言ったら、朝の6時くらいだったわ。それはそれは真っ暗でね。一人で駅のホームで待っていたの。
初めて乗る列車だったからね。この駅に停まってくれるのか不安で仕方なくて。私は小さい体を大きく伸ばして、必死に列車に手を振ったわ。
真っ暗だったし、小さい私を置いていくんじゃないかってドキドキしたわね。」
おばあちゃんは、照れながら懐かしそうに語ってくれた。
ついでにわたしも照れた。
それに伴って、いつかは鹿賀駅も撤去されるときが来るだろう。
線路の上を何十年も前と変わらず走る三江線みて、おばあちゃんのが懐かしい出来事に思いを馳せることもできなくなってしまう。
私は最初、見知らぬ土地に走る列車の廃線なんかどうでもいいと思っていた。しかしおばあちゃんの思い出はまるで私の思い出であるかのように淡く、はっきりと脳裏に刷り込まれていった。
列車にはたくさんの人の思い出が詰まっている。
沢山の人の青い春を乗せて走ったあの日。
こらえきれなかった涙を必死に隠しながら列車に揺られたあの日。
車窓から見えるいつもの景色。
何気ない友達との会話。
全部が全部些細なことかもしれないが「三江線が廃線になる」という一言で、今まで感じることのできなかった切なさを、これら全ての思い出に感じてしまうのであろう。
失ってから気づく大切さ。
そんなものが存在するのは仕方ないことなのかもしれない。人間は慣れあう生き物だ。前を向いて生きている以上、常に失うことに意識を向けている暇はない。
しかし当たり前になってしまった存在ほど、失った時の喪失感は計り知れないのも事実である。
三江線もきっと、集落の人にとっては当たり前の存在だったはずだ。子供の時から村を走る列車がなくなってしまうのはどんな気分なのだろうか。
私は三江線に思い出がない。
いや、なかった。
今日できたじゃないか。
おばあちゃんが鹿賀駅のホームで「寂しい」と言いながら話してくれた思い出話を聞いたこと。これが私と三江線との思い出だ。
その後にみた線路は、なんだか懐かしいものに見えた。
もうすぐ廃線になるのに、今頃思い出なんて作っちゃって。自分で悲しくなるようなことしたなあ。
沖縄で育った私にはJRとの甘酸っぱい思い出はない。
これがきっと最初で最後の思い出になるだろう。
勝手に鹿賀駅と三江線を自分の思い出のポケットに詰め込んで、私は島根を後にした。
おばあちゃん、また遊びに行くけんね。